「君が代は、大和時代に出来ていた論」
ここで、当時の大和政権と民との心温まるエピソードを紹介したい。
当時の税はお米で払われていたが、豊作のある年、税であるお米を取りすぎたと思った王朝は、余分なお米を民に返した。喜んだ民は「君が代」の合唱で祝った。
「君が代」は聖徳太子が自ら執筆・編纂した膨大な文献の中にすでに収められている。メロディは元々呉、現在の福建省辺りのものらしい。
(略)
さて、明治維新後、津田梅子ら7人の大和撫子が欧米へと研修派遣された。歓待を受けたお礼にアメリカ大統領のレセプションの席上、全員が和服に盛装し君が代を歌った。その歌に大統領以下全員が感動して「我が国にも国歌を」ということで、それまで軍で歌われていた「星条旗よ永遠なれ」が国歌として制定された。(P100)
ワタシも歴史書の見落としがあるはずなので、間違いあったらネタモト付きでツッコミをお願いします。
- 「君が代」は聖徳太子が自ら執筆・編纂した膨大な文献→「君が代」の元ネタ、読み人知らずの和歌が登場するのは、古今和歌集(905年)。聖徳太子が関与するには時代が合わない。
- メロディは元々呉、現在の福建省辺りのもの→作曲者は林広守と国旗及び国歌に関する法律に書かれているのだが…。
- とすると、「喜んだ民は「君が代」の合唱で祝った。」って、どんな節回しで歌ったんだろう??
「我が国にも国歌を」
ここのくだりは少し長めに。
歌の件の検証に先立ち、細かなツッコミ。岩倉使節団とともに海を渡った留学生の数だが
出発時には、若き女子5名を含む43名の留学生も率いられていた(国立公文書館)
とあり、どっから「7人の大和撫子」になったのかは謎だが、誤植・校正漏れの可能性も捨てがたいので、軽微なものとしてスルーします。
さて本題。
津田梅子らの留学期間は、1871年から1882年(津田塾大学のサイトによる)。
君が代の曲部分は、フェントン版が1872年、1880年に確定となるが(PDF)、さあてスコアという形で届いていたんだろうか?
さてここから、ツッコミ。
- それまで軍で歌われていた「星条旗よ永遠なれ」が国歌
ワタシも大幅に勘違いしてたが、「星条旗よ永遠なれ」はこれ。
スーザがこの曲を作曲したのは1896年。帰国してから後の14年後、では大幅なズレがあるし、そもそもこれは「国の公式行進曲」で制定は1987年。
では、今の国歌「星条旗(The Star-Spangled Banner)」の誤植、とみなして話を進めるとどうなるか。
作詞:フランシス・スコット・キー(1814年)&作曲:ジョン・スタフォード・スミス(1780年)
ところが、これまた重大な矛盾が。
「星条旗」が国歌として法定されたのは1931年。またしてもあわない。それも49年も。いくら何でも暢気すぎる。
津田梅子らの留学当時の事実上の国歌(法定はされていない)は、"My Country, 'Tis of Thee(America)"。