「君が代は、大和時代に出来ていた論」

 ●君が代アメリカ国歌制定のきっかけになった

 ここで、当時の大和政権と民との心温まるエピソードを紹介したい。
 当時の税はお米で払われていたが、豊作のある年、税であるお米を取りすぎたと思った王朝は、余分なお米を民に返した。喜んだ民は「君が代」の合唱で祝った。
君が代」は聖徳太子が自ら執筆・編纂した膨大な文献の中にすでに収められている。メロディは元々呉、現在の福建省辺りのものらしい。
(略)
 さて、明治維新後、津田梅子ら7人の大和撫子が欧米へと研修派遣された。歓待を受けたお礼にアメリカ大統領のレセプションの席上、全員が和服に盛装し君が代を歌った。その歌に大統領以下全員が感動して「我が国にも国歌を」ということで、それまで軍で歌われていた「星条旗よ永遠なれ」が国歌として制定された。(P100)

 ワタシも歴史書の見落としがあるはずなので、間違いあったらネタモト付きでツッコミをお願いします。

「我が国にも国歌を」

 ここのくだりは少し長めに。

 歌の件の検証に先立ち、細かなツッコミ。岩倉使節団とともに海を渡った留学生の数だが

出発時には、若き女子5名を含む43名の留学生も率いられていた(国立公文書館

とあり、どっから「7人の大和撫子」になったのかは謎だが、誤植・校正漏れの可能性も捨てがたいので、軽微なものとしてスルーします。

 さて本題。

 津田梅子らの留学期間は、1871年から1882年(津田塾大学のサイトによる)。

 君が代の曲部分は、フェントン版が1872年、1880年に確定となるが(PDF)、さあてスコアという形で届いていたんだろうか?

 さてここから、ツッコミ。

  • それまで軍で歌われていた「星条旗よ永遠なれ」が国歌

 ワタシも大幅に勘違いしてたが、「星条旗よ永遠なれ」はこれ。

 スーザがこの曲を作曲したのは1896年。帰国してから後の14年後、では大幅なズレがあるし、そもそもこれは「国の公式行進曲」で制定は1987年。

 では、今の国歌「星条旗(The Star-Spangled Banner)」の誤植、とみなして話を進めるとどうなるか。

 作詞:フランシス・スコット・キー(1814年)&作曲:ジョン・スタフォード・スミス(1780年
 ところが、これまた重大な矛盾が。

星条旗」が国歌として法定されたのは1931年。またしてもあわない。それも49年も。いくら何でも暢気すぎる。

 津田梅子らの留学当時の事実上の国歌(法定はされていない)は、"My Country, 'Tis of Thee(America)"。


次回予告:「邪馬台国九州説と日本武尊出雲王朝説」に続く。